2009年11月27日金曜日

何がどう伝わるのかの賞味期限


アフリカ、報道写真、死んだ子供を抱えて泣き叫ぶ母親、
銃を抱えて空虚な目をした少年兵、水を運ぶ人々、やせ細った老人、
手当のされない病人や負傷者たち。

報道写真には目を向けておきたいと思うし、
確かにそこで起きている出来事が記録され、
伝えられるということの価値は大きいと感じている。

世界報道写真展、毎年だいたい見に行っているし、好きなのだが
だんだん写真が自分の心に届かなくなってきているのも事実である。

その原因ははスペクタクルにあると自分では思っている。
視覚表現は刺激が強いために鮮烈な印象を持つけれども
人の脳はすぐそれに慣れてしまう。僕はそう思っている。
だからキリがないのだ。
より刺激的で衝撃的な写真や映像を求めて作っては慣れて作っては慣れて・・・

少し前に写美に行ってセバスチャン・サルガドのアフリカ展を見てきた。

報道写真よりはアート写真と言えるサルガドの写真は、長く大きなインパクトを残してくれた。
泣き叫ぶ人の姿は無かったけれど、虚ろな目をして遠くを見つめる人の姿があった。
被写体との距離はものすごく近いものだった。
紛争の最中といった非常時でもない、日常の生活が行われている中で村に入って人に入っていく
このセバスチャン・サルガドという人はいったいどんな顔をしてどんな姿をしているのだろうか。
写真を見進めていくうちにそれが知りたくなっていった。

こうやって書いていくうちにも別の声が聞こえてきていつもまとまらなくなるのだけれども、
報道写真展がスペクタクルに片寄ってしまって見えたのは、
単にその写真家の受賞した一枚の写真しかみてないからっていうこともあるんだろうな。

報道写真家の個展なんて超有名になった人のもの以外はなかなかないような気もするのだけれども
個展でその人の撮ってきた写真を見れば印象も変わるんだろうな、きっと。

2009年11月25日水曜日

意識について

即興演奏、どこへ向かうのか。向かいたいのか。
意識の向こう側か、あるいは意識の中心か。
演奏するにはどうしたって手に意識が向かってしまうんじゃないのかな?
楽器を使えない自分にはわからないが、無意識に手を自在に動かすってことが可能なものなのか。
演奏能力の向上によって意識の度合いはきっと下がっていくのだろうけれども、残っちゃうよな、きっと。
無意識の中へ入りたい思いと、しかし即興で他の演奏者を聞きながら意識的に演奏をしていく自分の意識の間で
苛立ったりするものなのだろうか。
昨日の山下洋輔はどんな意識の状態で演奏していたのだろうか。
見ている側からすると、ギターよりもピアノの方が無意識から遠い印象を持ってしまうのでこう思うのだけど。

ライブは最高だった。
矢部直のDJが入ることでベース(楽器ではないベース)の部分をリードすることで
山下洋輔も大友良英もより自由に演奏できていたように感じたし、DJ抜きの部分では狂った心地よいノイズを奏でてくれたし。
西村記人のパフォーマンス見てて思いましたよ。ライブペインティングの人もやっぱ背中向けて絵描いてるだけじゃなぁと。
for E.W.SAIDと最初に描いていた。最後の絵に描いた文字はわからなかったが。


しかるべきところにおさまっていることは重要ではなく、望ましくないとさえ思えるようになった。
あるべきところからはずれ、さ迷いつづけるのがよい。
決して本拠地などもたず、どのようなところでも自分の住まいにいるようの気持ちは持ちすぎない方がよいのだ


out of place

2009年11月24日火曜日

嫌いなもの1

本のカバーが大嫌いである。

そもそも何のためにあるのか、存在理由については考えることができても
存在価値については認める気にはとてもなれない。

高価な美術書や学術書、またはそれらに準ずるような大切にしたい本ならばわかる。

だけど、新書や文庫にカバーなんて要らないだろ、と思う。
新書や文庫だったら、本の内容以外に意味なんてないものでしょ、そもそも。
それにさらに本屋ではご丁寧に紙のカバーをつけてくれようとする。
さっぱり意味がわからない。
最近では凝ったデザインのブックカバーとかも売れているようだし、
本当に無駄な印刷物だと思う。

まあ、上記のことは後ずけの理由であって、一番の理由は
カバーがあったら本が読みにくくてしょうがないということである。
もしかしたら賛同してくれる人はそんなにいないのかもしれないが。

文庫とか新書だったら、本を読んでいるとき右手の親指の付け根あたりが表紙、
左手の親指の付け根あたりが裏表紙、親指の腹のあたりでページをめくり
左右どちらかの、あるいは両方の中指から小指のあたりで背表紙を持っているというのは
誰もそんなに変わらないと思うけれども、どうしたってカバーと本本体は微妙にずれてくるので
フラストレーションがたまってくる。

だから自分は本を買ったら、読む時はカバーは必ず外している。
捨てるのもゴミになるだけなので、捨てないが邪魔ではあるので
読み終わった本にはカバーをつけなおす。

他に本にカバーをかける理由はなんだろうか。
装釘にコストがかからないことであろうか。
カバーであれば一枚の紙に印刷するだけだろうが、
本の表紙の紙に凝った印刷やカラーで印刷するのは高くなりそうだな。

どこかの出版社がやってくれればいいのに。

2009年11月7日土曜日

なぜの喚起



この人について何も知らなかったのだが、
「社会と芸術をつなげた現代芸術家」と紹介された文章をWEBで読んで行くことにした。
"BEUYS IN JAPAN" 場所は水戸芸術館、この美術館はいい展示をやっていると思う。

手段として芸術をやっていた人なのだと思う。

展示された大量の作品は、文化的背景、時代背景を知らないと理解の難しいものばかりだったが
作品のタイトルは明確に付けられていて、タイトルのおかげで作者の意図に思いを巡らすことができた。
そのタイトルを伝えるために作品を作っていたのではないかな、とも思えてしまった。
また、来日時の記者会見や芸大での対話集会で語られるボイスの言葉は明快でわかりやすいのだった。

勝手に想像してしまえば、政治家にでもなれたであろうし、なろうと考えたこともあったのかもしれない。
しかし芸術家を選択し、"なぜ"の喚起で革命を起こそうとしたんだろうな。

私が試みているのは、鑑賞させる美術作品ではなく
作品を通してなぜそれが成立しているのか、
それがいかに社会と関わりをもっているのか
そういう"なぜ"を喚起するものなのです。


機会があればもう一度見てみたいと思う展示だった。
ボイスが言っていた”すべての人間は芸術家である”という言葉を聞いて
ゲバラの言った”新しい人間”という言葉を思い出した。
diversityとconcentration、一見すると相反しているようだが
そう遠くないことを言っているように思えた。

2009年11月1日日曜日

何を書くのか 1

何を書くのか、
感情を書くのか、
迷いを書くのか、
憧れを書くのか、
理性が入ってくる、
どれだけ入ってくるのか、
論理を展開するのか、
調べたことを書くのか、
滅裂を書くのか、

もっと脳に近いインターフェースがあればいいのに
行とか順番とか左から右とか上から下とか気にせずに、
脳の中で生じたあいまいなもの、言葉にならないものを
そのまま出して、並べて絵にして、空間にして、見えるようになればいいのに。

いやいやいや。それらを言葉や何かの形にするのが考えるということではないのか、
そこを怠けてしまってはいけないのではないか。

ああ、どんどん読んでない本がたまっていく。