2009年12月31日木曜日

山ご飯

12/27に出発し、12/29に帰ってきました。
テント泊にするか山小屋にするか最後まで迷ったけれども、
出発前日の夜、外に買い物に出かけた時に寒かったので山小屋にすることに。

一泊目は、雲取山直下の雲取山荘、二泊目は三條の湯という温泉宿に泊まることにした。
ただ、2泊ともに素泊まりにしたので食事は全て持参した。
以下、その記録。

# 12/27 昼ご飯

秩父の宮さまが名付けたという、霧藻ヶ峰という美しい名前の頂きにある休憩所の前で
雪をかぶった浅間山や御巣鷹山、両神山を眺めながらカロリーメイトを一箱。
アーモンドチョコレートを少々を食べて出発。



# 12/27 夜ご飯

雲取山荘は、入り口を出たすぐのところに小屋があって
自炊はそこを使ってくれとのことだった。
ストーブもつけてもらって暖かい中で食事ができた。
ご飯を一合ちょっととインスタントラーメン。
バランスの悪いラーメンライス。
ご飯はいつもの通り、芯が残ってしまった。



# 12/28 朝ご飯

お湯だけわかして、カロリーメイト半分と粉末みそ汁と粉末カフェモカだけ食べて出発。
粉末のみそ汁は、生みそタイプより味は劣るが軽いので仕方ないな。



# 12/28 昼ご飯

昼はカロリーメイトの予定だったが、予定より早く三條の湯に到着したので
そこで自炊することに。
とはいっても、写真の通り。フリーズドライの甘酒も作ってみた。悪くない。




# 12/28 夜ご飯

今回こそはご飯をうまく炊きたいと思い、一時間ほど水につけておいてから
炊き始めたところ芯が残らずにうまく炊くことができた。
時間に余裕があれば毎回こうすればいいんだな。
あと、どうしても野菜が足りがちになるので
次回からは、何か乾燥具材と一緒に炊き込みご飯風にしてみたいなと思う。



# 12/29 朝ご飯

昨晩多めに炊いたご飯の余りをみそ汁と混ぜて雑炊風に。これもなかなか美味しかった。




正直、ほめられた食事ではないのでなんとか改善したいな。
負荷を少なく自然の中に入ろうとすると、人工で添加物満載の食事になってしまうし、
本当に良いものを美味しく食べようとすると、車で大量の荷物を持っていかなければならなくなるし・・・
かさばるもの、重たいものはなかなか持っていけないので
工夫をして炊き込みご飯にするとか、少しの調味料を持っていって炒めたりしたりしたいと思う。
コーヒーもドリップ後のガラを持ち運ぶ気になれば美味しいのが飲めるしなぁ。

2009年12月30日水曜日

この10年のベストアルバム

池田信夫氏のブログでやっていたのを見て自分もやりたくなった。
しかし10年って長いな。10年で聴いてきた遍歴が全て網羅されてしまう気がする。
とても順番をつけられそうにないので、順不同で30枚を挙げてみる。
発売時期を限定せずにこの10年で良く聴いたものを挙げてみる。

- KID A / Radiohead
- XTRMNTR / Primal Scream
- Futurama / Supercar
- ( ) / Sigur Ros
- Sunkissed / Guitar
- Since I Left You / Avalanches
- Pause / Four Tet
- LOOPHOLE / Sketch Show
- LOVEBEAT / Sunahara Yoshinori
- Sung Tongs / Animal Collective
- Person Pitch / Panda Bear
- Many In High Places Are Not Well / HIM
- On Air / John Fahey
- Ten / cLOUDDEAD
- Sell Our Soul / Tha Blue Herb
- Segundo / Juana Molina
- Private/Public / Takagi Masakatsu
- Music Has The Right To Children / Boards of Canada
- Endless Summer / Fennesz
- Bodily Functions / Herbert
- letsallmakemistakes / Matthew Herbert
- Fabric 36 / Ricardo Villalobos
- Shift to the other time @UNIT 28.1.2006 / Fumiya Tanaka
- Nah Und Fern / Gas
- Quadrophonic / Eater
- Linear Cryptics / Ametsub
- 23 Seconds / Cobblestone Jazz
- Ferndorf / Hauschka
- Reich: Music For 18 Musicians / Ensemble Moden
- Bach: Goldberg Variations / Glenn Gould

2009年12月26日土曜日

雲取山へ

明日から雲取山へ行く。
メモも兼ねて予定と持ち物を記録。

日程:
# 12/27:
並木大橋5:37→6:50東京駅7:06→丸の内線→7:23池袋7:30→特急ちちぶ5号→8:52西武秩父9:10→バス→10:25三峯神社
ここから登山
三峯神社10:40→12:40霧藻ヶ峰13:00→14:30白岩山14:30→16:30雲取山荘

# 12/28:
雲取山荘7:00→雲取山山頂7:30→飛竜山→三条の湯

# 12/29
三条の湯5:30→サオラ峠7:30→お祭り10:00→鴨沢10:32→バス→11:10奥多摩駅11:46→12:59西立川

持ち物

-karrimor ridge 30
-mont-bell レインカバー
-Danner Light
-軽アイゼン
-mont-bell ダイナアクションパーカー
-mont-bell ストームクルーザーパンツ
-mont-bell ジオライン中厚、薄手、タイツ
-patagonia cap3
-patagonia R2
-mont-bell ダウンベスト
-black diamond 手袋
-millet パンツ
-タオル
-bridge dale socks x 2
-smart wool socks x 1
-Richo GX200
-Minolta TC1
-Kodak portra800
-Fujifilm natura1600
-blackdiamond head light
-maglite LED
-単三電池2本
-単四電池3本
-水ボトル1Lx2
-Jet Boil
-ガスx2
-箸
-スプーン
-帽子
-無洗米2.5合
-インスタント麺x2
-みそ汁粉末タイプx3
-黒飴一袋
-カロリーメイトx4
-ごま塩
-フリーズドライ甘酒x3
-アーモンドチョコレート
-沖縄黒飴
-粉末コーヒー
-ジップロック
-ライター
-火打ち石
-コンパス
-ドライバッグ15L
-山と高原地図23,25
-携帯電話予備電池
-筆記用具
-手帳
-本:スモール イズ ビューティフル / E.F.シューマッハー 講談社学術文庫

聖なる怪物たち




先週ダンスの公演を見に行ってきた。
最初に興味を持ったのはRosasのFASEというDVDを見た時だった。
ライヒのミニマルな音楽に完璧に調和したダンスの映像がものすごくて見入ってしまった。
その後、ウィリアム・フォーサイスのOne Flat Thing, reproducedにもはまって
いつか生でこういったダンスを見てみたいと思っていた。

このシルヴィギエムとアクラムカーンの聖なる怪物たち、というのは
上記のDVDにあるストイックさはなく、公演の途中で笑いの起こる会話があったりして
期待していたものとは少し違った感じだったが、それでも身体の動きと美しさには感動した。

自身の五体を脳が指令した通りに動かしていくということ。

このことはとても面白いと思う。

ただ、ダンスの公演とダンスのDVDは完全に別のものだなと感じた。



2009年12月13日日曜日

限りあるものは有効に

定義があいまいだと現実的に実行するのはなかなか難しいのだけれども、
(有効に)利用されていない土地には高額な税金を課してしまえばいいと思っている。

駅前の一等地なのにも関わらず、駐車場を作ったふりだけしている土地とか
荒れ果てた農地を見ているとそう思わずにはいられない。

たまたま所有していたた土地の近くに駅ができ地価が上がって
頭も身体も使わずに資産価値が上がっていく。
たまたま所有していた土地の近くに道ができて土地が良い値で売れていく。
全く納税者意識が低いというか何というか。

当然ながら、日本の土地は有限だ。仮に世界中を占領したって無限にはならない。
有限なものは有効に活用しないと、全体として損失である。
キューバの都市農業が成功したのは(社会主義なのだからということもあるが)、
有効に利用できるものがその土地を使用できる権利を持つという制度のためらしい。
別に社会主義でなくたって、作物を一定量以上作っていない農地や
その他の土地でも使用していない土地には税金を高くかければ有効活用していない土地は
どんどん流動化されて有効活用される気がするのになぁ。

なんてことなんかを久しぶりに考えたのは、こんなニュースを見たから。
”Guerrilla Gardening !!!”
http://greenz.jp/2008/04/10/guerrilla_gardening/
http://www.guerrillagardening.org/index.html
Reclaim the Streetより攻撃的ではないし、すばらしいアイデアだと思う。

公共の空間は、一般市民が触れられない場所であってはならないと思う。
迷惑さえかかってなかったら何やったっていいのだし、そうあるべきだと思う。

別に私的所有権を否定するわけではないが、土地の所有って何だ?
土地ってのはそもそも地球の一部のことであるし、所有なんて言うのは傲慢じゃないのか?

と書きながら、そんなこと言ったら
すべての製品は地球の一部をただで採ってきて作ったものでもあるしなぁ・・・

2009年11月27日金曜日

何がどう伝わるのかの賞味期限


アフリカ、報道写真、死んだ子供を抱えて泣き叫ぶ母親、
銃を抱えて空虚な目をした少年兵、水を運ぶ人々、やせ細った老人、
手当のされない病人や負傷者たち。

報道写真には目を向けておきたいと思うし、
確かにそこで起きている出来事が記録され、
伝えられるということの価値は大きいと感じている。

世界報道写真展、毎年だいたい見に行っているし、好きなのだが
だんだん写真が自分の心に届かなくなってきているのも事実である。

その原因ははスペクタクルにあると自分では思っている。
視覚表現は刺激が強いために鮮烈な印象を持つけれども
人の脳はすぐそれに慣れてしまう。僕はそう思っている。
だからキリがないのだ。
より刺激的で衝撃的な写真や映像を求めて作っては慣れて作っては慣れて・・・

少し前に写美に行ってセバスチャン・サルガドのアフリカ展を見てきた。

報道写真よりはアート写真と言えるサルガドの写真は、長く大きなインパクトを残してくれた。
泣き叫ぶ人の姿は無かったけれど、虚ろな目をして遠くを見つめる人の姿があった。
被写体との距離はものすごく近いものだった。
紛争の最中といった非常時でもない、日常の生活が行われている中で村に入って人に入っていく
このセバスチャン・サルガドという人はいったいどんな顔をしてどんな姿をしているのだろうか。
写真を見進めていくうちにそれが知りたくなっていった。

こうやって書いていくうちにも別の声が聞こえてきていつもまとまらなくなるのだけれども、
報道写真展がスペクタクルに片寄ってしまって見えたのは、
単にその写真家の受賞した一枚の写真しかみてないからっていうこともあるんだろうな。

報道写真家の個展なんて超有名になった人のもの以外はなかなかないような気もするのだけれども
個展でその人の撮ってきた写真を見れば印象も変わるんだろうな、きっと。

2009年11月25日水曜日

意識について

即興演奏、どこへ向かうのか。向かいたいのか。
意識の向こう側か、あるいは意識の中心か。
演奏するにはどうしたって手に意識が向かってしまうんじゃないのかな?
楽器を使えない自分にはわからないが、無意識に手を自在に動かすってことが可能なものなのか。
演奏能力の向上によって意識の度合いはきっと下がっていくのだろうけれども、残っちゃうよな、きっと。
無意識の中へ入りたい思いと、しかし即興で他の演奏者を聞きながら意識的に演奏をしていく自分の意識の間で
苛立ったりするものなのだろうか。
昨日の山下洋輔はどんな意識の状態で演奏していたのだろうか。
見ている側からすると、ギターよりもピアノの方が無意識から遠い印象を持ってしまうのでこう思うのだけど。

ライブは最高だった。
矢部直のDJが入ることでベース(楽器ではないベース)の部分をリードすることで
山下洋輔も大友良英もより自由に演奏できていたように感じたし、DJ抜きの部分では狂った心地よいノイズを奏でてくれたし。
西村記人のパフォーマンス見てて思いましたよ。ライブペインティングの人もやっぱ背中向けて絵描いてるだけじゃなぁと。
for E.W.SAIDと最初に描いていた。最後の絵に描いた文字はわからなかったが。


しかるべきところにおさまっていることは重要ではなく、望ましくないとさえ思えるようになった。
あるべきところからはずれ、さ迷いつづけるのがよい。
決して本拠地などもたず、どのようなところでも自分の住まいにいるようの気持ちは持ちすぎない方がよいのだ


out of place

2009年11月24日火曜日

嫌いなもの1

本のカバーが大嫌いである。

そもそも何のためにあるのか、存在理由については考えることができても
存在価値については認める気にはとてもなれない。

高価な美術書や学術書、またはそれらに準ずるような大切にしたい本ならばわかる。

だけど、新書や文庫にカバーなんて要らないだろ、と思う。
新書や文庫だったら、本の内容以外に意味なんてないものでしょ、そもそも。
それにさらに本屋ではご丁寧に紙のカバーをつけてくれようとする。
さっぱり意味がわからない。
最近では凝ったデザインのブックカバーとかも売れているようだし、
本当に無駄な印刷物だと思う。

まあ、上記のことは後ずけの理由であって、一番の理由は
カバーがあったら本が読みにくくてしょうがないということである。
もしかしたら賛同してくれる人はそんなにいないのかもしれないが。

文庫とか新書だったら、本を読んでいるとき右手の親指の付け根あたりが表紙、
左手の親指の付け根あたりが裏表紙、親指の腹のあたりでページをめくり
左右どちらかの、あるいは両方の中指から小指のあたりで背表紙を持っているというのは
誰もそんなに変わらないと思うけれども、どうしたってカバーと本本体は微妙にずれてくるので
フラストレーションがたまってくる。

だから自分は本を買ったら、読む時はカバーは必ず外している。
捨てるのもゴミになるだけなので、捨てないが邪魔ではあるので
読み終わった本にはカバーをつけなおす。

他に本にカバーをかける理由はなんだろうか。
装釘にコストがかからないことであろうか。
カバーであれば一枚の紙に印刷するだけだろうが、
本の表紙の紙に凝った印刷やカラーで印刷するのは高くなりそうだな。

どこかの出版社がやってくれればいいのに。

2009年11月7日土曜日

なぜの喚起



この人について何も知らなかったのだが、
「社会と芸術をつなげた現代芸術家」と紹介された文章をWEBで読んで行くことにした。
"BEUYS IN JAPAN" 場所は水戸芸術館、この美術館はいい展示をやっていると思う。

手段として芸術をやっていた人なのだと思う。

展示された大量の作品は、文化的背景、時代背景を知らないと理解の難しいものばかりだったが
作品のタイトルは明確に付けられていて、タイトルのおかげで作者の意図に思いを巡らすことができた。
そのタイトルを伝えるために作品を作っていたのではないかな、とも思えてしまった。
また、来日時の記者会見や芸大での対話集会で語られるボイスの言葉は明快でわかりやすいのだった。

勝手に想像してしまえば、政治家にでもなれたであろうし、なろうと考えたこともあったのかもしれない。
しかし芸術家を選択し、"なぜ"の喚起で革命を起こそうとしたんだろうな。

私が試みているのは、鑑賞させる美術作品ではなく
作品を通してなぜそれが成立しているのか、
それがいかに社会と関わりをもっているのか
そういう"なぜ"を喚起するものなのです。


機会があればもう一度見てみたいと思う展示だった。
ボイスが言っていた”すべての人間は芸術家である”という言葉を聞いて
ゲバラの言った”新しい人間”という言葉を思い出した。
diversityとconcentration、一見すると相反しているようだが
そう遠くないことを言っているように思えた。

2009年11月1日日曜日

何を書くのか 1

何を書くのか、
感情を書くのか、
迷いを書くのか、
憧れを書くのか、
理性が入ってくる、
どれだけ入ってくるのか、
論理を展開するのか、
調べたことを書くのか、
滅裂を書くのか、

もっと脳に近いインターフェースがあればいいのに
行とか順番とか左から右とか上から下とか気にせずに、
脳の中で生じたあいまいなもの、言葉にならないものを
そのまま出して、並べて絵にして、空間にして、見えるようになればいいのに。

いやいやいや。それらを言葉や何かの形にするのが考えるということではないのか、
そこを怠けてしまってはいけないのではないか。

ああ、どんどん読んでない本がたまっていく。